2022.08.03
自分以外の人のために戦う。
鹿児島県にある離島”種子島”人口約29000人の小さな島が生んだプロサーファー、須田那月。2019年には、日本最高のサーフィンの称号JPSA ショートボード女子でグランドチャンピオンにも輝いた彼女も、多くの逆境を乗り越えてきた。プロサーフィン界では、女性には大きな波は危険すぎるとの理由で波が小さくコンディションが悪いと言われる時間帯に大会日程を組まれることもあった。賞金にも大きな格差が生まれており、女性プロサーファーにとってはこれまでの40年間、「暗黒の時代」とも言われていた。2021年にはサーフィンがオリンピックの正式種目に選ばれ、現在では男女の格差も大きな改善が見られつつある今、彼女の目が捉える未来とは?

初めて意識した「職業としてのサーフィン」
ーー初めてサーフィンを経験したのは、小学2年生の時。だけどその時、不慣れな海中で溺れかけてしまって、サーフィンと密接に関わるきっかけにはなりませんでした。サーフィンではなく、サッカーやピアノやコーラスなどの習い事をしていました。ただ、水泳は得意で小学校の時は水泳の選手に選ばれて、町の記録会にも参加していました。本格的にサーフィンを始めたのは小学5年生の時からだったので、弟(須田喬士郎さん プロサーファー)よりもかなり遅いスタートです。あの頃は、まだサーフィンでプロになるなんてことは全く考えていませんでした。サーフィンで生計を立てていく人生が想像できなくて、「職業としてのサーフィン」が、イメージできなかったからです。
そんな中、同年代のプロサーファーが書いているブログを見たことがきっかけで、「スポンサーをつけて活動をする」というやり方を知りました。そこから徐々に「プロになるんだ」という気持ちが固まっていって、サーフィンとの向き合い方も変わっていきました。中学生の時には、明確にプロになることを目標とし生活をしていました。部活動には入らず、授業が始まる前と放課後に、サーフィンやトレーニングをしていました。ただ、「サーフィンをする意味」を見失いそうになったことがあります。地元高校への進学が決まり、入学の1週間前に「プロ活動をしながら通学は難しい」と言われてしまって、急遽都内の通信高校への進学に切り替えなければならなくなったんです。まだ精神的にも子供でしたし、単純に友達と一緒にいたいという気持ちが強くて、悩んでいました。
おそらく両親も、そんな私の葛藤を感じていたんだと思います。高校入学前に両親からオーストラリア行きを勧められたんです。種子島という小さな世界から飛び出し、世界レベルの高い技術や、他の選手のサーフィンへの熱量を肌で感じ、その時にあったモヤモヤしたものが綺麗に消えていきました。高校へ入学してすぐに最年少でプロライセンスをとることができたのも、この経験のおかげだと感じています。
「夢を追うこと」のハードさを実感。
一番の試練はプロになってからでした。学業の両立は確かに大変でしたが、学校や勉強は嫌いではなかったので、なんとかうまくこなせていました。これまでも、「遊びでサーフィンをやっている」と絶対に思われたくなくて、勉強は人一倍していたんですよ。だから苦ではなかった。試練だと感じたのは、サーフィン活動の部分です。当時最年少(15歳)でプロになることができたのは良かったものの、当然実績もない私にすぐにスポンサーがつくわけでもなく、自分から企業などに連絡をし、スポンサーを探していました。もちろんアルバイトもして、自分でも資金調達はしていました。そもそもプロになった理由の一つは、遠征費の負担を減らすこともありました。私と弟がサーフィンをしている中、両親が遠征費を工面してくれていたのでその負担を減らしたかったのが1番の理由です。

サーフィンを始めた頃から、「遠征費でいくらかかっていて、家計でいくらかかっていて…」と、家族間で金銭面の情報を共有してもらっていました。競技を続けていく上で、モチベーションの維持はもちろん、続けるにあたってかかる費用を工面することも必要ですから。スポンサー様がついた後からは、応援してもらうからには”勝たないといけない”という責任感が生まれて、プレッシャーを感じることもありました。試合前のルーティンで気持ちを整えたり、色々試行錯誤していましたね。
そんな中でもスポンサーの方や家族、知り合いからの応援のおかげもあって順調に活動を続けていられたのですが、東京オリンピック前に怪我をしてしまい、この時1年間活動ができなくなってしまったんです。このまま動けなくなってしまうのではと思ってしまうくらいリハビリに時間がかかってしまって、自分で髪を洗えないくらい痛みが残っていて。本当に怖かったですね。
この時強く実感したのが、”いつでも夢を追っていられるわけではない”という現実です。活動を続けられること自体がすごく幸せなことなのだと、改めて思い知らされました。だからこそ、今やれるうちにやらないとって気持ちが芽生えてきて、いい意味で他の部分を考える余裕がなくなったと言うか、試合で変にプレッシャーを感じることがなくなりましたね。すごく集中できています。自分の中での葛藤とかそういった「内面との戦い」ではなく、もっとシンプルに、競技へ向き合うことができるようになったのかもしれません。もちろん勝たないとって気持ちはありますが、試合前のルーティンとかジンクス的なもので気持ちを落ち着けるまでもなく、今は”ただ勝つため”だけに試合へ挑んでいますね。
夢の先にある景色
プロになる前から、やるならば当然トップを狙いたいという気持ちがあったので、今も世界大会への出場、そして優勝が目標であることは変わっていません。年齢的にも引退後どうするかを考えなければならないのかもしれませんが、私は「どうすれば女性アスリートが長く活動を続けられるのか」という点を考える方が多いです。実際に私自身がプロ活動を続けていく中で、男女格差のようなものを感じることがあります。女性特有の課題が、まだまだ解決できていない部分があると思っています。例えば、サーフィンの大会会場に更衣室がないこと。会場によってはありますが、物陰で着替えをすることも少なくありません。
女性アスリート特有の悩みに寄り添って解決方法や課題を発信していくことも、私がプロサーファーを続けていく上での大きなテーマであり目標です。サーフィン自体がオリンピック競技に認定されたばかりですし、競技としての歴史もまだ作られている途中なので、これからどんどん課題は出てくると思っています。「NPO団体surf & sea 」の理事を務めているのも、自分自身が身を置いているプロサーファー界の課題解決へ向けた行動の一つです。サーフィンに限らず、女性が”自分を生きる”モデルケースに自分自身がなれるような活動を行うことを常日頃、意識しています。女性は出産や結婚で活動できなくなる期間も出てきますし、自分を貫くことがどうしても難しくなってしまうこともあると思うんです。でも、同じ性別・同じ状況の人が活躍していたら、それだけで勇気をもらえるんじゃないかな。自分が誰かにとって一歩踏み出すきっかけになれたら嬉しいです。

負けず嫌いだと笑う彼女は、負けず嫌いなのではなく、誤魔化しを許せない正直者なのだと感じる。悩んだ過去ですらも、愛おしい思い出を話すかのように、明るく穏やかに語ってくれた須田那月選手。『大会で勝つことが自分の仕事。』そう言い切った彼女の強さから垣間見えたのは、自分以外の誰かのために戦う覚悟だった。
ーー文・小田京(株式会社VillageAI)
プロサーファー・NPO法人サーフアンドシー理事
須田那月
1995年生まれ。2011年JPSAプロ公認。JPSAツアーを回りながら、海外の試合に出場。2017年に遠征先のオーストラリアで肩の大怪我をして1年間療養。復帰後2年の2019年にJPSAグランドチャンピオンを獲得。 NPO法人サーフアンドシーhttps://surfandsea.org
https://www.instagram.com/natsukisuda_/